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8 Jun 2020
三浦按針になったイギリス人 ウィリアム・アダムス (William Adams 1564 - 1620)

西暦1600年に九州に漂着したオランダ商船のイギリス人航海士ウィリアム・アダムスは将軍徳川家康の信頼を得て通訳兼外交顧問として活躍し、1609年のオランダとの、次いで1613年には母国イギリスとの通商開始において基礎作りと根回しに大いに尽力しました。そのアダムスが旗本武士・三浦按針として長崎県平戸で55年の生涯を閉じたのは1620年5月16日でした。没後400年の大きな節目にあたる今年ですが、按針ゆかりの静岡県伊東市及び大分県臼杵市の記念式典やイベントは、新型コロナ感染拡大防止のため今のところ中止あるいは延期となっています。神奈川県横須賀市が毎年4月8日に開催する恒例の三浦按針祭観楼会には、在日英国大使館防衛武官並びに在日オランダ大使館館員も参加くださり祝辞を頂戴していましたが、この会も今年は中止となりました。長崎県平戸市でも同様に記念行事は延期されましたが、先日5月23日に按針の墓所がある平戸市崎方公園にて没後400年を記念した三浦按針バラ園の内覧会が実施され、イギリスの国花であるバラを300本植樹し、ウィリアムアダムスと名づけられた大輪の赤いバラも植えられたそうです。このように、三浦按針の名前と業績は今でも語り継がれ、日本の人々から広く親しまれております。

 

ウィリアム・アダムスは1564年にイギリス東南部ケント州のメドウェイ川河口の港町ジリンガムで生まれ12歳で船大工見習いとなってライムハウス(現ロンドン)で造船、天文学、航海術などを12年間学んだ後、1588年ドレイク提督率いる英国海軍の輸送艦艦長を務め、当時世界最強と言われたスペイン無敵艦隊を破った戦いに参戦しています。翌年25歳で英国人メアリーと結婚し一男一女を授かりましたが、1598年6月オランダの貿易会社出資の5隻からなるオランダ商船団東洋遠征隊に主任航海士として弟トマスと共に乗船し東洋に向け出帆しました。

 

当時は大航海時代の最中で、強国スペインとポルトガルが世界貿易の覇権を二分しており、新興国オランダとイギリスは新たな東洋交易路を開拓する必要があった為、アダムスの艦隊は大西洋を南下し南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を抜け、太平洋を北上し、2年近くかけて1600年4月に現在の大分県臼杵市に漂着しました。出航時には5隻の船団でしたが、悪天候の連続、季節風待ち、飢えと病気の蔓延を乗り越えて日本にたどり着いたのは航海士アダムスの乗った満身創痍のリーフデ号1隻だけで生存者は24人。しかも自力で歩けたのは6人だけでした。アダムスの弟トマスも航海中に亡くなりました。

 

         

         17世紀の版画(大英博物館所蔵)               リーフデ号の復元模型 

(左から)フライデ・ボートスハット号、トラウ号     (堺市博物館所蔵)

   へローフ号、リーフデ号、ホープ号     

 

当時の日本は豊臣秀吉亡き後、秀頼が関白を継いで大坂城主となって2年経ち、徳川家康は豊臣家の筆頭家老を務めていたものの着々と半年後に迫る関ヶ原の戦に向けて準備を進めていました。

臼杵に漂着したリーフデ号の報を受け、家康は早速乗組員代表を大坂城に呼び出し、ポルトガル人のイエズス会神父の通訳で航海士アダムスと副航海士ヤン・ヨーステンを引見し事情聴取しました。アダムスがリーフデ号の遠征航海の目的はイエズス会のようなキリスト教布教ではなく東洋との交易を結ぶ為であると説明すると、家康はリーフデ号生存者全員の日本滞在を許可し、未知の国オランダやイギリスの場所や航路について多大な関心を示したそうです。1600年10月の関ヶ原の戦で家康が豊臣家を守る石田三成の軍勢を破った際には、リーフデ号の積荷の大砲や小銃も使われたと言われております。

合戦に勝って勢いを増した家康は1603年には江戸に幕府を開き日本を統治する武士の最高権力者、征夷大将軍となりました。

東南アジアとの朱印船貿易を通じて海外交易の重要性を感じていた家康は、度々アダムスから遠洋航海術、天文学、幾何学などの話を聞いて知識を蓄え、同時にアダムスも少しずつ日本語が上達したので、家康から外交顧問兼通訳として起用されました。

1604年に家康から日本初の西洋式帆船の建造を下命されたアダムスは、木造帆船建造に必須の条件≪木材が豊富・船大工が揃う・港に近い河口≫が揃った伊東を選び、日本人船大工の指揮を取って帆船を完成させました。

アダムスの功績を称えた家康は江戸日本橋に屋敷を与え、さらに翌1605年には三浦郡逸見(現横須賀市)の領地二百五十石、刀大小2本、脇差を下賜。そして領地から三浦という名字を、名前は当時の日本語で航海士・水先案内人を意味する按針とした日本名を与えました。ウィリアム・アダムスは旗本三浦按針となり、イギリス人のサムライが誕生したのです。按針は武士の風習に従い日本人女性ゆきと結婚し、息子ジョゼフと娘スザンナを授かりました。

その後按針は家康の外交顧問として本領を発揮し、オランダ、次いでジェイムズ1世統治下のイギリスとの通商開始と平戸への両国商館設置に大きな貢献を果たして、家康に仕えました。イギリス商館館長の日記にもアダムスが外交顧問として家康の尊敬を受けていると記されています。

その頃には按針は将軍家康から帰国許可も得ており、通商団のイギリス船で帰国することも可能でした。しかし船の司令官が将軍拝謁時にイギリス式作法を主張するとアダムスは日本式に直すなど、日本人化したアダムスを気に入らず形式的に帰国の招待はしたものの二人の関係は冷たいまま終始したため、アダムスは按針として日本に骨を埋める決意を固めました。家康の亡き後は東南アジアとの交易に専念し、1620年に平戸で病死いたしました。

 

ところが2017年、没後400年を目前に控え、平戸の三浦按針の墓と伝えられていた辺りから壺に入った人骨が発掘されたのです。その骨が果たして按針本人のものなのか大きな注目を集め、高度な科学的分析鑑定が開始されました。その結果、この骨は1590年から1620年に死亡した40〜59歳の男性であり、更にミトコンドリアDNA鑑定から北西ヨーロッパ人であることも確認され、按針本人である可能性が高まりました。残念ながら妻ゆきとの子供二人の消息も、平戸で生まれたと言われる庶子の消息も不明の為、平戸市は按針の末裔をなんとか探して本人の確証を得たいと予算を組んで、按針の出生地ケント州ジリンガムのあるメドウェイ市に協力を求めましたが、アダムス姓が英国ではよくある名前だったために非常にたくさんの「アダムスさん」が家系図などを携えて名乗り出てきてしまい、ウィリアム・アダムスとの血縁を示すDNAパターン特定には至らなかったようです。

結局、前述した科学的鑑定結果に加えて遺骨が発掘された場所や骨壷に納められていた状況証拠を併せて判断し、平戸の遺骨は三浦按針本人と確定されたと、日本では昨年報道されました。

           

ロンドンの東インド会社に宛てた自筆の手紙     長崎県平戸市大久保崎方公園にある墓所

 (1613年12月1日付 大英図書館所蔵)     〒859ー5102  平戸市大久保町2529

 

そして迎えた今年の命日5月16日に、なんと英国の全国紙テレグラフとデイリーメイルが「イギリス人サムライ永眠の地が没後400年目についに確定された」「日本を訪れた最初のイギリス人は将軍のお気に入りだった」と、大きな見出しでウィリアムアダムス/三浦按針の記事を掲載しました。アダムスをモデルにしたジェイムズ・クラベル原作の小説SHOGUN (将軍)が1980年にアメリカでテレビ化され、また映画版も日本及びヨーロッパで上映され大人気を博しましたが、モデルとなった実在のウィリアム・アダムスの名前がイギリスでは未だ広く知られておりません。今回のアダムス400年目のお命日に合わせた新聞報道で広くアダムス/ANJINへの興味、関心が高まれば、平戸に眠る按針が400年の時を超えて日英文化交流の水先案内人となって母国イギリスに蘇ることでしょう。

 

アダムスの故郷メドウェイ市は今年9月12日にジリンガム公園にて”Will Adams 400” 記念イベントを開催いたします。17世紀と21世紀の海洋航海の歴史と日本文化がテーマの興味深い企画ですので、足をお運びになられては如何でしょうか。但し、新型コロナウィルス感染予防に十分ご配慮くださいませ。

 

イベント詳細は下記のリンクをご参照ください。

 

https://www.visitmedway.org/events/will-adams-400-57631/