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1 Aug 2018
日英の女性参政権

2018年は英国での女性参政権獲得から100周年にあたり、その運動に関わったサフラジェッ

トと呼ばれた女性たちに注目が集まっています。数々の記念行事や展覧会が計画され、活躍した指

導者の一人ミリセント・フォーサイスの銅像が、ウェストミンスターの国会近くの公園に多くの男

性の政治家像に交じって初めての女性像として加えられました。もう一人の指導者、エメリーン・

パンクハーストはWSPU (Women’s Social and Political Union) の代表者として、自らもハンガ

ー・ストライキなど過激なプロテストをしたことで有名です。

 

WSPU はハンガー・ストライキをした女性たちの勇気を讃えるメダルを発行し、WSPU のシンボ

ルとしていた紫、白、緑の三色のリボンに飾られた銀のメダルをパンクハーストにも贈っていま

す。1913年6月にはエプソムの競馬場でエミリー・デイヴィソンが疾走する馬の前にWSPU

のスカーフを翻して走り出て、馬に蹴られて亡くなるという悲劇が起こりました。デイヴィソンは

自殺行為で女性参政権を訴えたヒロインとして歴史に残ることになりましたが、イギリスでの女性

参政権獲得までにはこうした犠牲まで出たのです。

 

9月例会はイギリスでの女性参政権獲得とサフラジェット運動に関する展示をミュージアム・オ

ブ・ロンドンで見学します。

 

 

                              

Emmeline Pankhurst               Hunger strike medal                Emily Davidson memorial issue 

 

 

では日本での女性参政権獲得は?と目を転じると、日本で女性が政治に関われるようになったのは

第二次大戦後の1946年になってからで、イギリスよりも70年以上遅れてからでした。今でこ

そ女性が選挙できるのは当たり前の時代ですが、戦前は男性のみが政治に関わっていたのは改め

て驚く事実です。

しかし実は女性参政権運動は既に明治末期から始まり、平塚らいてはう(らいちょう)が1911

年に創刊した女性文学誌「青鞜」を通して知識層の間で注目されるようになっていました。当時

25歳だった平塚の書いた「元祖女性は太陽だった」という文章は女性の権利獲得運動を象徴する

言葉として今も残っています。

 

その後大正デモクラシーの気運の高まる中、平塚は1919年に奥むめお, 市川房枝らの協力を得

て「新婦人協会」を設立、協会の機関紙誌「女性同盟」を通して婦人参政権運動と母性の保護を世

に主張して行きます。しかし1921年に平塚は過労と市川房枝との対立から新婦人協会を去りま

すが、残った奥むめお、坂本真琴の活発な運動により1922年には女性の集会を阻んでいた治安

警察法改正に成功しました。

 

新婦人協会の他にもガントレット恒子や久布白落美らによって日本婦人参政権協会が結成され、

1924年には婦人参政権獲得期成同盟会が運動を促進して行きました。治安警察法改正の他にも

これらの運動によって1933年には女性が弁護士になることを可能にする婦人弁護士制度制定に

成功して、女性の政治的・社会的地位の向上が進みました。1931年には婦人参政権を条件付き

で認める法案が衆議院を通過しますが、貴族院の反対で廃案となっています。

 

初めて女性も選挙が出来ることになったのは、戦後になって1945年9月20日にアメリカの軍

政下にあった沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙でした。

 

日本全土においては終戦直後の1945年8月25日に市川房枝が中心となって「戦後対策婦人委

員会」が結成されて、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法の廃止などを求めた五項目が政府及

び主要政党に提出され、婦人参政権運動が更に促進しました。1945年10月10日には幣原内

閣において女性参政権が閣議決定がされ、翌10月11日に連合国軍総司令官ダグラス・マッカー

サーが幣原内閣に対して行った五大改革の指令には「参政権賦与による日本婦人の解放」が含ま

れていました。アメリカに背中を押されて、日本での女性参政権獲得につながったという事もでき

ますが、平塚らいてう、市川房枝、奥むめお他の多くの女性たちが長い間に積み重ねた努力が戦後

の改革に繋がったと言えるでしょう。

 

                              

          

Raicho Hiratsuka                       青 鞜